こころの泉①
今日は「こころ」についてすこし書いてみようと思います。
恋愛や結婚、またはビジネスっていうか、そういうものを超えたパートナーシップのようなものについて想うとき、
わたしがよくイメージするものがあります。
それは、泉です。
温泉…でもいいかも。笑
だれかと関わっているとき、自分のこころの底から、喜びや温かさや、なにかジーンとしたエネルギーが泉のように湧いてくる…そんなビジョンが浮かぶからです。
そういったエネルギーというかパワーの源は、いったいどこにあるのか見当もつかないですし、そこにはたとえば「正しさ」のようなものはなく、「面白さ」や「優しさ」のようなこととも違い、ただコンコンと湧く泉のように
いつもその人への想いが巡っているという、そんなかんじでしょうか。
もし運が良ければ、相手にも自分に対する泉が湧いていて、2人の泉はどこか奥底でつながっているような気持ちになることもあります。
もしかしたら、何という理由もなく枯れることもあるかもしれませんし、
もし、ひとりに対して1つの泉…
共同風呂のようなかんじや、ドミトリーのようでもなくて、完全なる個室だとしたら(わたしにとっては個室のイメージ)ほかの泉の開通?によって、新しい泉に心奪われることだってあるでしょう…
これはなにも、恋人とかだけに限らず、
夫婦に子どもができたときや、
友人間にもありえそうなことです。
きっと親子であれば子どもが小さいときに、親子の間に自然と最初の泉ができるのだと思いますが、うまくいかないこともあるのかもしれません。
わたしは子どもの頃に、両親の離婚や祖母の病気のことがあって、孤独を経験したせいか、
どうも人と情を通わせるのが苦手です。
「どうせいなくなる」とか
「みんな結局自分のことばかり」
というようなワードがすぐ浮かんでしまうのです。
でもその浮かび上がる言葉に対して、悲観しているのではなく、「まあ、まあ」と、自分を慰めるというかなだめるような気持ちで生きていました。
まあ、自分にも当てはまることですから。
表面的には、ある程度愛想よく振る舞うことができたので、そのことに気づいたのは最近のことです。
ある人から「ホスピタリティの鬼」と言われるほど、ディープに長くサービス業をやってきましたが、じつは最近サービス業的に振る舞うのが、つらくなってきました。
人と接するときにこの、こころの泉の存在をとても強く感じるから、というのが、サービス業がつらくなってきた理由の1つです。
知ってる人だから、とか、
人が自分のために何かしてくれたとか、
お金のためとか、そういうことじゃなく、その人に対して泉が湧いているのか?
行動や付き合いの動機として、自分にとって、そこがいちばん大切だからです。
では、どんな泉の在りようが正しいのか…良いのかとか、そういうことを語る資格はないのですが、
こころの泉が枯れない限りは、善し悪しを超えて、だれかの味方でいることができるし、自分にとっての充足にも繋がっているんじゃないかなぁと思うんです。
詳しくはわかりませんが、きっとインナーチャイルドとか、そういうことにもつながっていそうなので、今度KOKOri .さんとのラジオの収録のときに話してみようと思います。
わたしにとっていま一番大切な「泉」は夫との間にあるものですが、年々深くおだやかにゆるぎなく、けっこうな水量の温泉が湧いているといつも感じているんです。
その水脈をたどると、なにかのマグマにつながっていそうな感じです。
やっぱ…阿蘇山かな?笑
いつか枯れるんじゃないかと思っていたときもあったんですが…何が起こったんでしょうか?笑
もちろん、夫のほうにもかなりの変化があったと思います。昔に比べたら、行動や言葉が、とても変わったし、彼のなかにもわたしに対する泉が湧いている様子を感じられるからです。
わたしは、体重計に乗るみたいに(笑)この泉の様子を、ことあるごとに確認するような癖があるんですが、
なにか2人の間に事件が起きたときこそ、
「あ、大丈夫だ」と確信してきました。
大丈夫だ、と思えることは、どういうことかというと、
相手が自分のいうことを聞いてくれたり許してくれることじゃなく、自分のなかで「この人を優先したい」という気持ちが湧くかどうか…
もちろん繋がりがあるからこそ「甘えても大丈夫」というときもありますけどね。
以前母にメールしたとき、
「夫さんを優先してね」と書いてくれたことがありました。
わたしも、人と会ったり出かけたりするときにいちおう約束はするけれど「あなたの大切なことを優先してね」と言うことが多いような気がします。
母もこころの泉を感じているんでしょうか…
さて、「こころの泉」については、
気の向くままにときどき書いてみたいと思います。
nagisa🦊